Vol.7 作曲 その1 音楽設計
台本の構成案が固まってきた辺りから、作曲の準備へと入って行った。2009年7月初旬の頃だったと思う。一幕三場の構成で、各場のプロットの骨格を想定した時点で、音楽設計にも取りかかった。
この作品で最も特徴的な設定は、主人公の詩人がオペラ歌手ではなく、演劇の俳優であると言うことである。
オペラなのに何故主人公が俳優?
「童謡詩劇うずら」のサブタイトルに、「童謡、演劇、そしてオペラの融合」とあるのだが、グランド・オペラではなく、日本語での新しい形式のオペラ舞台とは何か?というのが、委嘱を受けてからの大きなテーマの一つであり、このサブタイトルがひとつの道標であった。
日本語の舞台、即ち古典で言うと歌舞伎や文楽、能や狂言などが上げられるし、現代で言うと新劇や大衆演劇、宝塚などもそうである。私はまず、これら既成のスタイルから、日本語が如何に物語を表出するのに書法化してきたかを検証していった。例えば、歌舞伎や文楽でのセリフは会話としてではなく、ひとつの様式の中にあり、言葉の内容を平易にする分、セリフ回しや役者の仕草・表情・間合いで深層を表現し、役者個々の個性を際立たせている。その際の音楽の関わり方も、物語に直接的ではなく、ある意味俯瞰的な立場をとっている。この辺は西洋文化のオペラと大きく違うところであるし、日本人が広義の演劇文化になにを求めているのかが伺われる。
オペラにも、フランスのオペラ・コミックのように語りと歌を分けたものもあるが、それは様式的な問題よりも内容からの起因であり、やはり西洋文化の中でのオペラは、ドラマを歌うことによって歴史を積み上げてきているのだ。
私は、この「うずら」の中で主人公の詩人を”狂言回し”としても扱うことを試みた。それは文学と音楽との橋渡し役でもあり、融合者としての存在でもある。ドラマを面白くさせるには、手引きと隠し球が必要であるのだが、それを担うのが詩人であり、それは「歌う」のではなく、「語る」必要があった。
狂言回しは、古くはギリシア悲劇、そしてシェークスピア演劇でも重要な位置にあるし、日本でも狂言の言葉の由来があるように、その存在は重要な位置を占め、歌舞伎や演劇だけでなく、現代でも映画やテレビドラマにも重宝される手法である。この狂言回し立ち位置は、洋の東西を問わず、そして時代を越えて共通しているところが興味深いし、オペラと演劇を、音楽と文学を融合するに適任者であると考えたのであった。
これらによって音楽設計として、「言葉」と「歌」の設置と配分を設計して行く。ここでは大雑把な言い方をするが、第一場が演劇的要素を多くし、語り言葉を中心にする構成。第二場は童謡という歌の存在を物語に絡め、言葉から歌へと表現の重心を移動させて行き、第三場ではドラマをより音楽的(オペラ的?)構成にすることによって、逆に言葉の少ない演劇を効果的にする、と言った設計をして行った。音楽が単に物語をなぞるのではなく、物語から音楽が生まれるという形が成立できればと考えたのであつた。
しかし、この音楽設計がかなり時間を喰ってしまった。台本作りと平行していたとは言え、やはり台本と音楽設計は表裏一体、音楽設計が先行するはずがない。各場、プロットから台本化する過程で、設計のやり直しが続いた。そして12月に台本第1稿が上がるのを受け、最終的な音楽設計の再調整を加えた。ここまでは、正に行ったり来たりの状態、各場の台本が上がりながら、如何にこれをオペラ化し、楽しめる作品にするか、奮闘に次ぐ奮闘である。
オペラの存在感意義として、アリアやアンサンブルは重要であるし、この作品にとって合唱と児童合唱は、もうひとつの主人公と言っても過言ではない。アリアの作曲は、台本作り・音楽設計と平行して、メインテーマである「ながれ」から始められた。8月も終わろうとしていた頃だった。
Vol.6 メインテーマ「ながれ」
最初のアイデア会議の際、私が呈示したアイデア・プロットには既成の童謡を挿入する方法を考えていた。(創作ノートVol.4参照)それは童謡の持つ時代背景と日本語との関連性を台本に活かせないかと言う企図からであった。と同時に、清水かつらの創作した約300編の詩を全て検証し、今回の企画に沿うであろうと思われる作曲されていない作品、20編余りを選出した。大正から昭和初期に創作された詩とは言え、人間性の消失、将来への不安、家族の分裂など、現代に通じるテーマを表出した詩も多く、改めて清水かつらの詩人としての先見性と普遍性に敬意を感じるところであった。
台本作りが清水かつらの随筆「うずら」を原案にして再創作する頃から、ストーリーに合いそうな詩を更に選別していき、最終的に8編を選ぶに至った。
ながれ
河鹿の鳴く頃
風の夜
子守唄
靴のうた
わたしはお床で
寂しい空
なわとびシャン
以上が清水かつらの詩として、今回の「うずら」のために新たに作曲する詩である。この中で最も私の心に響き、最初に作曲したのが「ながれ」であった。
五木寛之の大ヒット作品に「大河の一滴」という随筆があるが、その中に語られる人生と時間と水の流れの因果に多くの読者が共感した。また、私は中国の思想家である老子を愛読しているのだが、その中にも水の流れに人生の道理を説くくだりがある。昭和2年に創作された「ながれ」が、時代を越え、現代にもその強いメッセージを放しているのは、水と言う不変に人生や生き様を反映し、詩と言う言葉の宇宙に心を開放してくれるからではないだろうか。
その「ながれ」を作曲するにあたって最も注意を払ったのが語感である。以前、日本語の歌で重要なのは「アクセント」ではなく「文脈」と「リズム」であると書いたが、(創作ノートVol.3参照) 語感とは、作曲の際の「文脈」であり「リズム」である。如何に詩が放っている普遍の光を遮らずに音楽化するか。七五調3行の短い詩の世界が、6小節の小さな音楽世界からどこまで広大な宇宙へと広がるか。これを「うずら」のメインテーマ曲とし、この曲の完成度こそが「うずら」成功の鍵を握るであろうと直感された。
作曲は、意外と困難を感じることもなく書き進められた。他の7編にも言えることなのだが、清水かつらの詩は、未曲の作品でも既に曲が付いているが如く、すんなりと音楽に馴染んで行くのである。それは童謡詩人としての素晴らしい天分のみならず、詩と音楽の同一性を目指した大正時代の童謡文化の結実でもあるのではないかと思う。さらに七五調という日本語独自の語感が、私の企図する日本古来の音素材との融和を自然に形成し作曲に反映できた。また当初の不安材料であった文学と音楽の不一致と言う観念を、少しずつではあるが拭うことができる結果となった。
こうして2009年の初秋から、台本作りと平行して、まずはアリアの作曲から作業に入った。70分という大作の作曲作業に入るには、まずは音楽の構成案、アリア・合唱・管弦楽などの配置配分、音楽のドラマトゥルギーをどうのように構成するかを設計しなければならない。そして、台本作りに沿って清水かつらの詩だけでは補えないシチュエーションに対し、新井鷗子氏に作詩を依頼する。これは最終的には4曲となった。大家と娘の二重唱、先生のアリア、間奏曲としての合唱曲、そして演劇的要素を持った三重唱と合唱、それぞれキャラクターを活かし、尚且つ物語と詩のバランスが絶妙な詩作である。
作曲もいよいよ本格的に筆を進めることとなる。
Vol.5 台本
オペラのみならず、演劇・ミュージカル・映画・テレビ等々、多くの作り手や演者を必要とする総合芸術には、最初の一歩として「台本」という共有の基がある。それはある種、大建築物の設計図でもあり、宝探しの財宝のありかを示した地図でもある。原作ものと言われる文学作品をもとに戯曲化した台本もあれば、シェークスピアのように純文学を凌駕するほどの戯曲(台本)もあるが、どちらにしても台本の出来で作品の8割がたが決まってしまうと言っても過言ではないだろう。
今回の企画では、その台本作りから作曲家に委託された。ワーグナーのように自ら長大な台本を書き、楽劇として具現化した作曲家も存在するが、大体はヴェルディやプッチーニのように原作→台本→作曲の段階で多くの問題や格闘をしながら制作を進めて行くのが常であり、この「うずら」も台本の完成までに2年を月日を必要とした。
前述したように、台本はオペラにとって最重要であり、その創作には当初から半年から1年は掛かるだろうと想定していた。片山氏からいろいろなアイデアが提案され、それをアイデア会議と称した作曲家・演出家・指揮者・台本作家で討議する。台本作家が表現したいもの、演出家が考える舞台構図とその現実性、指揮者からの音楽的なアプローチ等々、予想はしていたとは言えプロット作りの段階からかなりの難産で、あっという間に予定の1年が経過しようとしていた。しかし、この1年の経過の理由は明快で、日本語とオペラの共存の問題と、日本語で歌われることの意義をこの新作でどう扱うかを台本に反映する困難さが大きな原因であった。
ちょうど1年くらいが経過した第7回目のアイデア会議の席に、片山氏から清水かつらの随筆で「うずら」という作品があり、これをアレンジしてはどうだろうという提案があり、1幕5景のシノプシスを見せて頂いた。これが今回の「童謡詩劇うずら」の第一歩であった。このシノプシスをもとに、さらに舞台化への問題や音楽上の配慮などが検討され、1幕3場という構成で台本制作に入ることとなった。
原作の「うずら」は、童謡詩人・清水かつらには珍しく、シニカルであり、虚無的な様相も含んでいた。それは作家として、かたや童謡と言う幻想の世界と、詩人と言う現実との格闘が生み出した生の声のようにも見え、このエッセンスがオペラと言う歌と演劇の共有舞台に活きるのではないかと考えた。
ここから音楽構成作家であり、オペラ台本の翻訳や批評もされている新井?子さんに台本作りに参加して頂くことにした。片山氏から新井氏にバトンタッチする形となったが、片山氏のシノプシスをともに、1場ずつオペラ化を前提としたプロットを私が起し、新井氏と私とで協議しながら台本化を進める方法をとることにした。
と同時に、清水かつらの全詩集約300編の中から、まだ曲が付いない、台本に沿った詩を選出する作業に入った。それは、童謡を新しい形で今回の作品に挿入したい企図は勿論のことだが、原作の持つ詩人としての感性に注目したからに他ならない。そして、「ながれ」や「寂しい空」など、現代人の深層にも共鳴する名作を発見できたことは、作曲家として心ときめくものがあった。
8回の台本アイデア会議、度重ねたプロット打ち合わせを経て、2009年12月にようやく第1稿台本による台本会議を持つことができた。そこから更に推敲がなされ決定稿へと完成するのだが、それはもう公演年である2010年の2月であった。
勿論、ここから作曲を始めていたのでは、とても初演には間に合わない。作曲作業は前年から始まっていた。
Vol.4 最初の一歩 アイデア会議
2008年2月の実行委員会での初顔合わせの後、早速制作スタッフの人選に入った。なにせ初めてオペラを作曲する人間に、台本や演出、舞台周りなどの一切を任せるというのであるからプレッシャーどころではなく、最初から苦難の道は覚悟の上であった。
「新しい形の日本語の歌の舞台」
これが大きなテーマであるが、まずは台本である。当初、実行委員会からは作曲家が台本を書いてはどうかという提案もあったが、私にはそんな文才は微塵もない。ではどうするか? ここで自分の畑、テレビや映画の世界での台本作りの方法を試みてみようと考えた。それは、複数の関係者、本作では〈作曲家〉〈台本作者〉〈演出家〉〈指揮者〉が最初のアイデア作りの段階から参加する、所謂制作会議のような形である。テレビドラマなどでは、まずプロデューサーが「こんな番組を作りたい」等の構想を放送作家に伝え、ある程度のプロット(構成)が上がった段階で、関係者が互いに意見を述べ合い筋を立てて行くのであるが、今回のプロジェクトもその形を取った。
そうなると最も肝心なのがスタッフ人選である。ここで新作成功の8割りが決まると言っても過言ではないだろう。演出や舞台周りは、通常のオペラ制作を請け負っている制作会社ではなく、敢えて演劇界の、しかも新劇のパイオニアである青年座にお願いした。私自身もどんな作品になるのか分からないままスタッフを決めるのは大博打のようにも見えるが、これまで青年座が新作を作り続け、そのスタッフの能力の高さは誰もが認めるところであるし、演出家もオペラ演出の方より、むしろ演劇的な演出をオペラの中で活かせれば、日本語がより音楽の中で存在感を表すのではないかと考えたからである。この様な企図の中、2006年青年座公演の「ブンナよ、木からおりてこい」でご一緒した演出家・黒岩亮氏に演出をお願いすることとなった。
指揮者は、オペラの中では演奏者側の総責任者と言える立場である。この人選には、これまで現代オペラの現場経験も有り、30年来の友人でもある栗田博文氏にお願いした。現場での作曲家のワガママを100%理解実践してくれ、且つオペラと言う特殊な現場を仕切って頂くことになるのだが、新作と言う、それまで形のない音楽をコツコツと作り上げて行くには、信頼関係と意志の疎通が最も重要なのである。
そして、台本作家であるが、これには最も悩んだ。「清水かつら」という題材を普遍的な作品として描き、かつ日本語と歌との関係に関心を持ち、日本語オペラの問題意識のある作家……… これが全く見当もつけられなかった。そんな人選で悩んでいる時、ある仕事の打ち合わせで音楽評論家の片山杜秀氏にこのプロジェクトの話を四方山話の中でお話した。片山氏は、音楽評論のみならず、時事問題や政治思想の研究、とりわけ日本語と音楽と社会の問題についても深い見識を持っている貴重な評論家である。話の中で、実はオペラの台本を書くのが若い頃からの夢であり、是非自分が書いてみたい、との意志を頂けた。いつも何本もの原稿締切りを抱えている売れっ子の片山氏が、自ら名乗り出てくれたのは渡りに舟。ただ通常の台本作りの過程とは違い、関係者がプロット制作から始める形であることを了承して頂き、これで第一歩となる台本作りのスタッフが決まった。
それから約1ヶ月後の4月、「和光市民オペラ新作案」と題して最初のアイデア会議が、初台の東京フィルハーモニー交響楽団の会議室で行われた。メンバーは、片山氏、黒岩氏、栗田氏、実行委員会から榑松氏、和光文化振興公社から大泉氏と出牛氏、音楽アシスタントの福嶋氏、そして私の8名の参加者で、私が用意したプロットをもとにいろいろなアイデアが出された。参考までにそのプロットを記しておく。
【形態について】
・清水かつらを主人公とは限定せず、自由な発想のもと台本作成にあたる。
・明治、大正、昭和の童謡を中心とした新しい創作舞台を目指す。
・音楽と芝居のバランスを考慮した作品。
・多くの再演を目指し、再演しやすい仕様にする。
・学校公演、または地元アマチュア団体も継続して再演できる形態。
【内容について】
・台本の骨子は、作曲家・台本作家・演出家・指揮者の4名で協議しプロットを作る。
・上記のアイデアフラッシュ会を5~6月に4回程度行う。
・アイデアフラッシュを経て台本作成に着手、その後音楽的検討を経て完成とする。
・清水かつらを「狂言回し」的な位置とする。例えば舞台俳優。
・メジャーな主役級は2名、他3名程度のキャスト。
・子供の主役、もしくは主要な役設定。
・童謡を7~8曲程度は挿入する。
・構成は、1幕で70分~80分程度。(子供の観賞や舞台装置の予算を考慮して)
・永きに渡って愛唱され続けてきた童謡の価値を見いだす内容。
・日本語を歌・芝居共しっかりと伝える。
・思想的、形而上的、風刺的エッセンスを盛り込む。(普遍性を持たせる)
・様式題目は「オペラ」ではなく別なものにする。
例えば、童謡詩劇 童謡物語 謡劇 詩劇
多忙にも関わらず関係者のご協力で、月に1,2回のペースでこのアイデア会議は開催された。当初の私の目論見では、2,3ヶ月のアイデア会議の後、台本書きに入り、1年位で台本完成のスケジュールを考えていた。
しかし、実際には台本の完成に2年を費やすこととなった。
「童謡詩劇うずら」プレイベント!
和光市民文化センターで毎年開催されている「叱られてコンクール」内で「うずら」のプレイベントが催されてます。作曲家・演出家・指揮者のトーク、弟妹役の高原佑季くんと工藤優ちゃんの舞台挨拶、うずら児童合唱団とうずら合唱団による合唱曲も披露されます。
・2010年9月11日(土) 13:30~14:00
・和光市民文化センター(サンアゼリア)大ホール
・入場無料
レコード芸術9月号(音楽之友社)に和田のインタビュー
8月20日発売のレコード芸術9月号にケルンで初演した「鬼神」から最新作「うずら」までのインタビューが掲載されています。
Vol.3 日本語とオペラ#3 日本語の歌考察
私は学生時代、モーツァルト作曲のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の助演のアルバイトをしたことがある。歌うわけではなく、給仕や兵士など、セリフのない役どころを演じるのである。これが私のオペラ初体験なのだが、それはとても魅力的かつ創造的な現場であった。ただ、その公演は日本語訳詞による歌唱で、日本語でオペラを歌うことの居心地の悪さを同時に感じた瞬間でもあった。
日本語の歌で、しばしば問題として語られるのがアクセントの問題であろう。よく例に上げられるのが、山田耕筰の「赤とんぼ」である。歌い出しの「夕焼け子焼けの赤とんぼ」の部分の「赤とんぼ」のメロディーが、「あかとんぼ」と頭にアクセントがあるように聞こえ、実際の「あかとんぼ」と発音が違うという問題である。現在の研究では、発表当時の大正10年では、標準発音も「あかとんぼ」だったという研究発表がなされているが、注目は山田耕筰がメロディー創作に於いてアクセントをかなり重要視した点である。三木露風との共同作業による、日本語の歌のあり方を模索している様子が伺えるが、やはり山田がドイツ留学をした経験が最も大きいのではないかと思う。ドイツ語は、日本語よりアクセントに敏感で、また日常に於いても(演説などでも)アクセントの上手さが評価に繋がると言っても過言ではない。勿論、それはドイツの数多の大作曲家にも大いに反映されている。ドイツ留学を経て、その歌曲作曲法に影響されたことは想像に難くない。
しかし、日本語の特徴は決してアクセントだけの問題ではないのである。むしろ、地方によってはアクセントが逆になることも多々で、標準アクセントは明治時代の為政者の仕業であり、音楽はなんら影響を受けないと私は考える。勿論、日本語を美しく話す上でアクセントは重要だが、歌という観点からすると、むしろアクセントより「文脈」と「リズム」の方を重要視すべきではないかと思う。例えば、先の「赤とんぼ」でも、アクセントの問題は昔から言われているが、その曲が名曲であることは誰もが認めるところであるし、詩の内容がアクセントの位置によって損なわれるということもない。つまり、我々は歌を「単語」ではなく、「文脈」で感じているのである。
例えば、不自然に感じる歌は、歌詞を「夕焼け子焼け、の赤とーんぼ」など、文体を不自然に区切ったメロディー構成をしているのである。J-Pop系でメロディー優先という現状を鑑みれば、こういう現象も多く見られるのであるが、何か違和感を感じるのは、こうした文脈とメロディーとが整合されていないという問題点があるからである。
「リズム」に於ても同様で、4拍子や3拍子によるメロディー作曲法では、先のようにメロディー優先で不自然な文体割りが行われてしまうことがある。これとは対称なのが、デグラメーションという朗唱法である。ロシアの作曲家ムソルグスキーの作品の中に多く見られるが、所謂、言葉のリズムを優先し、5拍子や6拍子など、言葉に合わせたリズムを複合的に使った作曲法である。文体を切らずに文脈で歌を作る、この方法が日本語の歌にも有効なのではないかと考える。
和歌を披講する際、概ね同じようなリズムと抑揚(旋律感)で歌われるが、それは上記のアクセントやリズムの問題を超越した潜在意識による伝統の美観が働いているからである。しかし、ここにも日本語の歌を創作する際の重要なヒントが隠されていると考えている。五・七・五のリズム、2度音程や3度音程など限られた音程感での構成は、美意識を刺激しながらも、言葉の意味に意識を集中できるように築き上げられた技法なのである。
さて、これらの考察と童謡という観点からこの「うずら」の歌は作られた。どうしたら言葉の世界を歌で表現できるか? それは創作ノートVol.1でも述べたように「文学」と「音楽」は共存できるのかという大命題への挑戦でもある。
さらに、創作は手段として表現を伴うが、「歌い方」も大きな問題である。つまり、オペラといえばイタリアのベルカント唱法であるが、その唱法が決して日本語を歌う場合には適切ではないという問題である。
この問題は、実に奥が深く、私たちの文化意義に大きく関わってくるのである。
和田薫指揮・東京フィルハーモニー交響楽団 銚子公演
「海響」生んだ銚子で作曲者の指揮による演奏!
他にも「犬夜叉幻想」や「オーケストラ探訪記」も演奏
2010年10月10日(日) 15:30
開演 銚子市青少年文化会館大ホール
お問合せ : 銚子市青少年文化会館 0479-22-3315
Vol.2 日本語とオペラ#2 童謡と演劇
2008年2月に実行委員会との初顔合わせがあった。実行委員会からの注文は、この和光に縁のある童謡詩人・清水かつらのオペラを作って欲しい、そして全国各地で再演されるような作品にして欲しい、という2点だった。しかも、清水かつらを題材に、作曲だけでなく、台本・キャスト・スタッフ等、何から何まで全て任せるということなのだ。
これには驚いた。オペラを書いたことの無い作曲家にそこまで託して良いものなのか?! 聞けば、現代オペラが面白くないのは、作曲・台本・演出などの意志疎通がバラバラで、そこに作品の普遍性が欠如する理由があるのではないかという実行委員会の見解であった。さらに、オペラを作ったことの無い作曲家だから、その未知数に期待したいとのこと。
前者は、一理あるとは思う。しかし、それにしても私を指名するのは大冒険なのでは? 後者は……。なんとも複雑な心境になる委嘱理由である。
私は、辞意を覚悟に(むしろクビになることを期待?!)、2つの条件を出させてもらった。1つは、所謂グランド・オペラ的な様式の作品は創作しないということ。そしてもう1つは、「清水かつら物語」は作らないということ。前者は、前回の創作ノートに書いた通り、グランド・オペラという様式が作曲家として相いれないこと。後者は、一個人の生涯を舞台化するのと、普遍普及を目的にそれを創作するのは困難だと感じたからである。折角、数年がかりで、和光市を中心に専門家や市民など広く人材を集めたこのプロジェクトが船出をしようとしているのだから、既成概念に捕らわれず、新しいカタチの舞台芸術、そして広い世代と地域で共感のもてる物語にしましょうと、結果的に実行委員会にハッパをかける形になってしまっていた。そして、大きな期待を受けながら初顔合わせは終わった。まだ何もアイデアがないまま…
私は、日本の作曲家、いや音楽家としてずっと気になることがあった。それは西洋音楽を学び、オーケストラや室内楽、時には現代邦楽の分野でも活動する中、私たちは西洋音楽導入期の明治維新後から現代に至るまでの経過を、きちんと検証し、引き継いでいるのだろうか、ということである。音楽学や歴史学的に検証する専門家はいるが、私が思うのは、民意の中にそれがあったであろうかということである。例えば、ヨーロッパは、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン……と、様式や時代背景が変遷しても、ひとつの継承という流れがあり、積み重ねがあって現代の音楽へと通じる。翻って日本の現状を見た時に、私たちは明治・大正・昭和の時代の流れを音楽として継承してきただろうか? それなくして文化と云えるのであろうか? という問題である。
そうした現状の中、唯一永い時を越えて今も残っているのが“童謡”や“唱歌”なのではないかと思う。厳密に云うと、童謡と唱歌は、その生まれた理由は大きく違う。それはまた別の機会に述べるとするが、100年という時を越えて、古典芸能ではなく、創作曲として民衆の中に残っている童謡や唱歌を、今一度検証すべきではないかと考えていた。そうすることによって、日本人独自の“歌”が生まれるのではないか?
微かな期待が生まれた。
縁あって、1999年から劇団青年座の音楽を時折担当させて頂いている。この新劇と呼ばれる、欧米の翻訳劇でない、日本独自の演劇表現を切り開く姿は、音楽家として大いに学ぶものが多い。例えば、青年座の公演は、音楽界でいうと毎回日本の現代音楽を公演しているようなものである。しかも劇団として輝かしい歴史と成果を上げている。オーケストラにそんなことがあり得ようか?
また近代西洋の演劇論の影響を受けながらも、日本語での方法論の開拓に労力を惜しまない。この姿勢がなぜ音楽界にないのだろう?
ひとつ云えるのは、この新劇運動は明治末期から、脈々と受け継がれているという事実と背景である。前述したように、正に音楽界がしてこなかったことを、そこに見ることが出来たのであった。
私の中で、長年関わってきたもの、点と点とが細い線で次第に結ばれ、段々と太くなっていく感覚を覚えた。
童謡、演劇、そしてオペラ。何か出来るかもしれないという予感。
しかし、ここから台本完成まで2年という時間を要するのであった。