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現代音楽からTV・映画の劇伴や舞台・イベントなどの作曲や編曲etc.

Column 2010年「童謡詩劇うずら創作ノート」

Vol.7 作曲 その1 音楽設計

 台本の構成案が固まってきた辺りから、作曲の準備へと入って行った。2009年7月初旬の頃だったと思う。一幕三場の構成で、各場のプロットの骨格を想定した時点で、音楽設計にも取りかかった。

この作品で最も特徴的な設定は、主人公の詩人がオペラ歌手ではなく、演劇の俳優であると言うことである。

オペラなのに何故主人公が俳優?

 「童謡詩劇うずら」のサブタイトルに、「童謡、演劇、そしてオペラの融合」とあるのだが、グランド・オペラではなく、日本語での新しい形式のオペラ舞台とは何か?というのが、委嘱を受けてからの大きなテーマの一つであり、このサブタイトルがひとつの道標であった。

 日本語の舞台、即ち古典で言うと歌舞伎や文楽、能や狂言などが上げられるし、現代で言うと新劇や大衆演劇、宝塚などもそうである。私はまず、これら既成のスタイルから、日本語が如何に物語を表出するのに書法化してきたかを検証していった。例えば、歌舞伎や文楽でのセリフは会話としてではなく、ひとつの様式の中にあり、言葉の内容を平易にする分、セリフ回しや役者の仕草・表情・間合いで深層を表現し、役者個々の個性を際立たせている。その際の音楽の関わり方も、物語に直接的ではなく、ある意味俯瞰的な立場をとっている。この辺は西洋文化のオペラと大きく違うところであるし、日本人が広義の演劇文化になにを求めているのかが伺われる。

 オペラにも、フランスのオペラ・コミックのように語りと歌を分けたものもあるが、それは様式的な問題よりも内容からの起因であり、やはり西洋文化の中でのオペラは、ドラマを歌うことによって歴史を積み上げてきているのだ。

 私は、この「うずら」の中で主人公の詩人を”狂言回し”としても扱うことを試みた。それは文学と音楽との橋渡し役でもあり、融合者としての存在でもある。ドラマを面白くさせるには、手引きと隠し球が必要であるのだが、それを担うのが詩人であり、それは「歌う」のではなく、「語る」必要があった。

 狂言回しは、古くはギリシア悲劇、そしてシェークスピア演劇でも重要な位置にあるし、日本でも狂言の言葉の由来があるように、その存在は重要な位置を占め、歌舞伎や演劇だけでなく、現代でも映画やテレビドラマにも重宝される手法である。この狂言回し立ち位置は、洋の東西を問わず、そして時代を越えて共通しているところが興味深いし、オペラと演劇を、音楽と文学を融合するに適任者であると考えたのであった。

 これらによって音楽設計として、「言葉」と「歌」の設置と配分を設計して行く。ここでは大雑把な言い方をするが、第一場が演劇的要素を多くし、語り言葉を中心にする構成。第二場は童謡という歌の存在を物語に絡め、言葉から歌へと表現の重心を移動させて行き、第三場ではドラマをより音楽的(オペラ的?)構成にすることによって、逆に言葉の少ない演劇を効果的にする、と言った設計をして行った。音楽が単に物語をなぞるのではなく、物語から音楽が生まれるという形が成立できればと考えたのであつた。

 しかし、この音楽設計がかなり時間を喰ってしまった。台本作りと平行していたとは言え、やはり台本と音楽設計は表裏一体、音楽設計が先行するはずがない。各場、プロットから台本化する過程で、設計のやり直しが続いた。そして12月に台本第1稿が上がるのを受け、最終的な音楽設計の再調整を加えた。ここまでは、正に行ったり来たりの状態、各場の台本が上がりながら、如何にこれをオペラ化し、楽しめる作品にするか、奮闘に次ぐ奮闘である。

 オペラの存在感意義として、アリアやアンサンブルは重要であるし、この作品にとって合唱と児童合唱は、もうひとつの主人公と言っても過言ではない。アリアの作曲は、台本作り・音楽設計と平行して、メインテーマである「ながれ」から始められた。8月も終わろうとしていた頃だった。