カッチーニの「アヴマリア」を録音
世界的ソプラノ歌手の中丸三千繪さんとカッチーニの「アヴマリア」を録音
世界的ソプラノ歌手の中丸三千繪さんとカッチーニの「アヴマリア」を録音
さぁ、コラム第2弾。なんとか月一ペースで頑張ってます! 今回は「作曲家になること」についてツレヅレに思ってみました。 みなさんも、作曲家って不思議な存在だと思いません?サラリーマンでもないし、自営業でもないし…僕が、どうのように歩いてきたのか…
― 年を重ねていくうちに実感する言葉「一期一会」
「一期一会」って云う言葉、歳を重ねていくうちに実感する言葉ですよね。僕は、実家の商売がお客様相手だったせいか、あまり人見知りをした覚えがなく。むしろ知らない人でもすぐに友達になってしまう子供でした。だから、人との出会いに若い頃は、あまり感謝するという実感がわかなかったんですね。
―作曲家の定義って曖昧かもしれない―
高き志を抱いて、上京し音楽大学に入学して、最初の作曲理論の授業で (この時の先生は伊福部先生ではなく、伊福部門下の池野成先生でした)
「作曲で 食べていこうなんて、とんでもないことですね。」
なんて講義を受けました。やる 気マンマンの僕は、かなり出鼻を挫かれた思いだったのですが、その本意が卒業後に分かったことは、言うまでもありません。でも、その頃から、今もそうですが、作曲家ってどうしたらなれるんだろう、作曲家ってなんだろう、っていう疑問が湧いてきました。
作曲家の僕が云うのもおかしな話ですが、ある意味、曲を書けば誰でも作曲家だし、人から認められる作品を書くからなのか、経済的自立ができるからなのか、その「作曲家」の存在って、世の中では結構曖昧なんですよね。
僕のところにも、たまに若い作曲家志望の方が尋ねてこられて、「作曲家になりたいのですが…」と相談されるのですが、何をどうしたら良いのか困ってしまうんです。
つまり、作曲家って「なるもの」ではなく、「ならされる」ものだと思うのです。
僕は、高校時代から作曲の勉強をはじめて、純音楽作品もその頃から書き始めました。
でも、それを職業にしようという認識は全然なく、まして今のような劇伴や編曲などの仕事をするとは、思ってもいませんでした。
海外での放浪生活から戻ってきた僕は、ひょんなことでアシスタント・プロデューサーになろうと、某制作会社の門を叩いたのですが、そこの社長に「君、せっかく作 曲やってるんだったら曲を聴かせてみなさい。」と言われ、作品を聴いてもらったところで、APの話はどこへやら、いつの間にかアニメの劇伴をやるようになりました。
―神様の悪戯 度重なる偶然
まさに神様のイタズラか偶然ですね。そして、その後も偶然は度々重なりました。今でも、どうやって作曲家になったのかと訊ねられても、???・・・
ただ、自分自身の音楽の探求を怠らず、自分が何をやっていきたいのかをいつも考え、 真摯に作品を創り続ける。
これが僕にとっての、作曲家としてのアイデンティティー だと思っています。そうして創られた作品が、あらゆる環境で出会った(仕事や舞台やインターネット等々)方々に喜ばれ愛されることが、作曲家になっていくことなんだなぁ、と今しみじみ感じています。
〔編集後記〕
第二回目のコラムは「作曲家になる」_いかがでしたか?さて・・・次はどんな話題が飛び出すか楽しみですね!
東京音楽大楽シンフォニック・ウインド・アンサンブルによってバンドのための「ゴジラ」ファンタジー&「ゴジラ」マーチが演奏されます
【公演】
7月10日 千葉県文化会館 18:30開演
7月11日 芸術劇場 18:30開演
お待たせしました!!ホームページのリニューアルに合わせて(?)やっとコラムのコーナーを発進することが出来ました。これからは、月一回を目標に、ツレヅレに四方山話を書いていきたいと思いますのでよろしくお付き合い下さいね。
さてそこで、第一弾のお題を何にしようかと思ったのですが、まずは本業である音楽のこと作曲についてのことから始めましょう。
―2つの音楽世界=「純音楽」「劇判音楽」
タイトルにある2つの音楽世界とは、僕が活動している「純音楽」と「劇伴(映像や舞台・ラジオ・CD等)音楽」の各々を指します。BBSでも、たまに話題になることなのですが、僕の中で、この2つの音楽は違う成立ちをしているんです。
―純音楽とは音楽以外何ものも表現しないもの
「純音楽」とは「音楽は音楽以外何ものも表現しないもの」であり、僕の価値観と審美感から創造されるものです。
それに対して、「劇伴音楽」には主題となるストーリーがあります。
それを監督や演出家が味付けをするわけですが、このストーリー・演出・音楽の間に「ドラマトゥルギー」というものが存在するんですね。これが、この2つの音楽の大きな違いと言えるでしょう。
―「ドラマトゥルギー」とは…
もうちょっと具体的に言うと、「劇伴音楽」の場合、戦闘シーンに勇ましい音楽を付けると、そのシーンは勇猛果 敢な表現になりますよね。それとは違い、リリカルな音楽を付けると、その戦闘の悲惨さや人間の業などを表現するようになります。
技術的に前者を「インタープンクタス」と云い、映画「地獄の黙示録」でのワーグナーの音楽などがそれですね。そして後者を「コントラプンクタス」と云い、映画「プラトーン」でのバーバーのアダージョの使われ方がそれに当たります。
では、どちらを選択するのか?この選択権は監督にあるのです。音楽家としては、インタープンクタスにしてもコントラプンクタスにしても、良い音楽(スコア)を書くしかありません。勿論、ドラマの主題を決定するのは監督ですから、あらゆるスタッフがそれに向けて、素晴らしい仕事をするわけで、音楽もそのスタッフの一人なのです。そこが、「総合芸術」と云われる所以でしょう。僕も、良い作品に出会えたときは、感動とともに監督に感謝したい気持ちでいっぱいになります。
―自分自身の価値観の創造
さて、それと違い「純音楽」は、どうやって創るのか?これは僕自身の価値観の創造から始めなくてはならないんですね。何を美しいと思うのか。何に感動するのか。何が大切なのか・・・。
音楽を書き始める前に、沢山の命題をこなしていかなくてはいけません。これは骨の折れる作業です。ある意味、答えを探りながらの作業なのかもしれませんね。
でも、僕の「純音楽」でのテーマはひとつ
「人の本能的感情をどのようにして喚起するか」
―人の本能的感情をどのようにして喚起するか
これは、時代・地域・年齢・性別・人種等々、様々な要因で違ってくるかもしれませんが、それらを共通 して「喚起」させることの出来る音楽が創造できたなら、作曲家として本望なのですね。
〔編集後記〕
第一回目のコラムから、堅苦しいことを書いてしまいましたが、これは僕が、2つの音楽世界で活動するための「所信表明」のようなものです。僕の音楽を聴いて下さっている皆さんが、僕の作曲家としての「素顔」を知る手がかりになればと、おもっいっきり書いてしまいました。次回は、もうちょっとホンワカした話題を・・・
故河島英五とアナム&マキ(アナムは河島さんの次女)のニューシングル「旧友再会」のストリングスアレンジを担当
¥3,059(税込)
2001.03.28/AVCA-14099
♪犬夜叉
「学校の怪談」サウンドトラックが3月7日にSPEよりリリース
前回の「映画 犬夜叉」奮闘記に続き、今回も映画「ミスター・ルーキー」の公開に合わせ、またまた映画ネタで…というスタッフのリクエストを横目に、今回は“甲子園”繋がりとして「我が青春の甲子園」と題して、僕の高校 時代のお話をば、お付き合いください。
「ミスター・ルーキー」のロケ慰問で、昨年の秋、22年ぶりに甲子園行きました。
そうなんです、我が母校、山口県立豊浦高等学校が夏の甲子園大会 に出場し、その応援団の一員としてラッパ片手に、17才の夏、僕は甲子園の アルプススタンドに立ちました。実は、その頃に僕にとって人生の方向を決める出来事が二つあったのです。
高校へ進学して、ふとしたきっかけで吹奏楽部へ入部した僕は、一年生の 秋頃から吹奏楽の楽器のための曲作りを、なんとなく始めていました。全く独 学で始めたため、最初は試行錯誤の連続で、なかなか頭の中でイメージしたものと、現実に作っていく曲のギャップに四苦八苦していました。しかし、4,5曲作っていく中で、ようやく自分でも納得の行く作品が作れるようになっていきました。もう二年生の春を迎えていました。そして、男の子としての “春”も訪れました…
僕が中学・高校と過ごしていた頃の下関は、とても封建的雰囲気のところで、 男女交際と言うのも高校でも1,2カップルしかいませんでした。もっとも男子校育ちの僕自身が、女の子と話すのが苦手だったのもあったのですが…そんな僕でも、中学校の頃から好きな女の子がいて、中学卒業時と高一の秋との、2回も告白し、そして惨敗したのでした。 その“憧れの君”が、高二の僕の誕生日に連絡をくれたのです。
福岡は、2月16日(金)アクロス福岡シンフォニーホール 19:00開演
大分は、2月20日(火)OASIS ひろば21グランシアタ 19:00開演