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現代音楽からTV・映画の劇伴や舞台・イベントなどの作曲や編曲etc.

伊福部昭の音楽のフィルモロジー

その2 世界各地域の映画音楽の書法スタイル

2017年12月03日

伊福部先生が映画の仕事を精力的に行われていたのは、1947年の「銀嶺の果て」からスタートして50年代60年代の日本映画全盛期の時代でした。先生曰く、「モノの本には600本って書いてあるけど、もっと書いたかなあ」なんて、スゴいことを仰っていました。この辺りの詳細は小林淳氏の著書にとても詳しく書かれていますが、伊福部ゼミが終って学外でのお酒やコーヒータイムになると、当時の映画業界のオモシロ話を良くしてくださいました。

「当時は現金払いですからね。バックいっぱいにお札を貰うんですよ」

「それで演奏者の皆さんと山手線一周飲み歩るくわけですよ」

「I野さんは映画のギャラ貰ってその足でヨットを買いにいったんですよ」等々。

ボクら学生は目を白黒させるばかりで、映画産業華やかしい頃のスゴさを学ばせて頂きました。

19世紀末に生まれた映画は、世界的にも産業として大きな成果を生み、華やかな映画業界は伝説となっています。今回は、その発展期から全盛期の時代(クラシック)の世界各地域から4つ地域の映画音楽の書法の講義を記していきたいと思います。

《世界各地域の映画音楽の書法スタイル》


(写真1 伊福部先生が作ってくださった資料「映画音楽のテクニック」表紙)

伊福部先生は、まず黒板に下記のように4つのスタイルがあると書かれました。

1、ロシアンスタイル (ソ連スタイル)
2、フレンチスタイル
3、ハリウッドスタイル
4、日本スタイル

書かれた順番に特に他意はないと思うのと、「ロシアンスタイル」というのは実質的には「ソビエト連邦スタイル」なのでしょうが、文化的発祥から先生は「ロシアンスタイル」と言っていました。

映画音楽の書き方は特定というわけではなく、いろいろなスタイルがあります。勿論、現在のようなグローバル時代は、その地域特化は失われつつあり、現代のハリウッドスタイル(ハンスジマーシステムとも言われる)が世界の主流になっているかのようでもあります。但、ここでは各地の映画文化の発祥やそれまでの文化との相乗効果がどのようにあったかという“文化論的”スタイルの解説を先生はしてくださいました。

まず1の「ロシアンスタイル」ですが、ソ連では作曲家が脚本を貰い、そこから交響曲(的な曲)を書きます。その際に勿論映像は無いわけです。そして出来上がった交響曲から監督がシーンに合った音楽を選曲していくのだそうです。

ソ連を代表する作曲家にセルゲイ・プロコフィエフがいますが、30年代から40年代にかけて多くの映画音楽を作曲しています。モンタージュ理論で有名なセルゲイ・エイゼンシュテイン監督(※注)とも「アレクサンドル・ネフスキー」や「イワン雷帝」など名作を残していますが、これらもこの書法で書かれています。なので、作曲家は後にその作品を編纂して純音楽として発表することもあります。「キージェ中尉」もそうですね。

ところで、ボクは92年に初めてモスクワのモスフィルムというロシア最大のスタジオへレコーディングに行ったのですが、その際に当時の映画音楽の作曲部長(?)を紹介され、そのオフィスのスゴさにビックリでした。当時ロシアはソ連崩壊直後で、かなり民衆は苦しい生活を強いられていたと思うのですが、その部屋の豪華さと酒の多さに、「この国では映画音楽作曲家はエライんだ」と感心したものでした。

続いて2の「フレンチスタイル」。映画の父とも呼ばれるリュミエール兄弟によって1895年に世界初の実写映画が公開され、映画産業の礎を築いたフランスは、やはり多くのクラシック作曲家が映画に参画し、世界初の映画音楽を作曲したサン=サーンス(「ギーズ公の暗殺」1908年)やイベールやオネゲルやミヨーなど、蒼々たる作曲家が映画音楽を書いています。

ここでは同時代的な現象もあるので、当時のイタリア映画やイギリス映画にも言えることだったようですが、作曲のスタイルとしては、作曲家が撮影時に現場に同席し、その場で監督の要請があるとピアノ(!)やギターで即興的に撮影に音楽を当てるのだそうです。それによって音楽による独特の間合いが生まれたり、タバコの灰が落ちるまで音楽によってシーンを引っ張ったりできるんだそうです。

伊福部先生も、さすがに撮影現場に楽器を持ち込むことは無いけれど、同席することは重要だと仰っていました。「ゴジラ」(‘54)の撮影現場へも度々足を運び、この映画がデビュー作となる宝田明さんとの交流や、秘密主義で知られる特撮監督の円谷英二からこっそりゴジラのラッシュを見せてもらったエピソードは、現場との付き合いが深くなければできなかった逸話です。

3の「ハリウッドスタイル」ですが、所謂映画の都と称されるハリウッドの映画会社が製作したアメリカ映画のスタイルですが、ジョン・ウイリアムズらの70年代80年代や前述した現代のハンス・ジマー率いる「ハンスジマー・システム」とは違い、「ハリウッド黄金期」と呼ばれる30年代から60年代くらいまでの映画音楽制作のスタイルになります。ファイリングシステムとも呼ばれ、「ラブシーン」「アクション」「サスペンス」「追っかけ」「コメディ」等、いろいろな音楽パターンの楽譜をファイル化(ジャンル別)し、シーンに合わせて選曲しレコーディングするシステムでした。

これは、そもそもアメリカの音楽出版社事情によるものが大きく影響しています。ティン・パン・アレーと呼ばれる1890年代に生まれたブロードウェイの小さな音楽出版社の集まりが、ミュージカルや映画のための音楽をいろんな作曲家に発注し楽譜を買い集めていました。ガーシュインもその一人ですが、トーキー映画となった頃、レビュー映画(歌と踊りの映画)やミュージカル映画が全盛で、音楽出版や映画会社の音楽セクションでは、数多くの作曲家を抱え、これら音楽パターンの曲を発注し書きためていたそうです。勿論、映画のスタッフロールには「Music ○○○」とクレジットされますが、内情的には上記のような作り方だったそうです。そう言う意味では、その後のメイン作曲家→オーケストレーターの複数作家体勢やハンスジマー・スタイルが生まれる要素は古くからあったと言えます。

思えば、この各種音楽パターンを作曲家に発注し選曲するシステムは、今の日本のテレビドラマやアニメに通じるところがあります。先ず持って製作会社にとって、音楽制作の時間とコストのカット、書き直しや選曲直しの利便性、音楽著作権の音楽出版社地位(これ重要!)など、非常にアメリカ的なシステムとも言えます。

最後4の「日本スタイル」ですが、これは上記の「ロシアンスタイル」「フレンチスタイル」「ハリウッドスタイル」のどれにも当てはまらず、伊福部先生が経験してきたスタイルと言えます。

日本映画は早くから海外から導入され、1898年にはサイレントとして国産映画第一号が公開されています。30年代から日本もトーキー時代を迎えるわけですが、この頃から戦前までの映画は歌舞伎的な要素が強く、音楽もドラマトゥルギーを必要としない背景音楽に徹していたようです。戦後のアメリカ文化の大量導入の影響もありますが、伊福部先生曰く「私の場合は、上京する前の北海道時代に多くの優れたヨーロッパ映画を観ていたので、アメリカ映画に毒されずにすみましたよ」とシニカルに仰っていました。現に伊福部先生の映画デビュー作となる「銀嶺の果て」(‘47)での谷口千吉監督との論争は有名なエピソードで、前回のドラマトゥルギーと合わせ、伊福部先生の映画音楽の書法が当時から新鋭的だったとも言えます。


(写真2 1956年の世界の代表作として伊福部先生の「ビルマの竪琴」が記載)

50年代60年代の日本映画全盛期の頃は、伊福部先生曰く「当時は、映画会社が15社くらいあって、それらが2週間に1本新作を作るんですよ。テレビもまだそんなに普及されていない時代でしたし、映画が一番の娯楽。私も月に2本以上書かされることもありました」と失笑しながらお話しされました。「本(台本)を貰って、こんな感じかなって考え、撮影に顔を出して、たまにシーンラッシュを見せて頂く。編集が終って監督とオールラッシュを観て、それから作曲なんですが、もう公開までに2週間しかないんですよ。ワハハ。」なんて、先生は笑いながら話していましたが、聞いているボクらは冷や汗。「そんな生活ばかりだし、京都の映画なんかまとめて撮るもんだから3ヶ月くらい家に帰れない」「ある日、近所の方が『伊福部さんちは母子家庭で大変ね』と噂が立ったので参りましたよ」なんて笑い話のように話されていました。

映画制作は分業システムなので、音楽制作はポストプロダクションと言って最後の作業になります。当然、撮影や編集等が遅れればそのシワ寄せが来る。嘗て、山本直純さんとお話ししていた時に「寅さんの現場なんて、録音現場で作曲して、写譜のインクが乾かないうちに録音してたんだよ」なんて、まるで戦場のような状態だったそうです。

日本システムと言いつつ、日本映画の現状と当時の思い出話が主だったのですが、その後ボク自身が映画やテレビの仕事をするようになって、この時代の話はとても参考になりましたし、年配の監督やスタッフさんとこの話で盛り上がることも多々ありました。

勿論、今はデジタル技術の進歩に伴い、日本をはじめ世界各国それぞれの映画音楽の作り方が変わっては来ていますが、伊福部先生はこのような書法がベースにあって各国各地の映画に特色があるんだよ、と伝えたかったのかなと今は思うところです。

※注
セルゲイ・エイゼンシュテイン (1898年-1948年)
帝政ロジア時代に生まれソビエト連邦時代の代表的監督。モンタージュ理論を確立した、映画史に於ける最も重要な監督の一人。代表作「戦艦ポチョムキン」(1925年)はハリウッドをはじめ世界的に影響を及ぼした。