亡師を偲んで
尾山台の駅を降り、商店街を抜け、多摩川を望む長い坂を下りて行くと先生のお宅があった。最初に伺ったのはいつだったろう。ジッと汗ばむ季節だったような気がする。
2月8日の深夜、電話で先生の訃報を知った。
実は年初めに連絡を受け、それ相当の覚悟はしていたつもりであった。でも、訃報の連絡を受けた後の記憶が今でもよく思い出せない。悲しみや驚愕を越えた感覚が僕を襲ったようであった。
ちょうど新作のリハーサルや録音の打合せ等、バタバタと立込んでいた時期だったと思う。否、一日リハーサルへは行くことが出来なかった
先生のお顔を拝見出来たのは12日の夕方だった。どのくらい眺めていただろう。先生のお宅へ通った日々が、まさに走馬灯のように次々と思い出しては、消えていった。遺族の方々ともお話をし、悲しいはずなのに、不思議と涙は湧いてこなかった。まだ現実を直視することが精一杯だった。
僕は、17歳の時に作曲の勉強を始め、師と仰ぐべき人を探すため、片田舎で毎日現代音楽のレコードや関係書物に没頭していた。そんな時、手にしたのが「リトミカ・オスティナータ」が収録されているビクターのレコードで、あのホルンの出だしで頭に雷が落ちた。興奮さめやまぬ数日後、FMラジオから「ラウダ・コンチェルタータ」の初演ライヴ放送を耳にした。今度は足元の大地が割れるような衝動を感じた。この2曲が決定的となり、僕は“伊福部昭”を求めて必死になったのを今でも覚えている。インターネットなど便利なものがなかった時代、田舎で先生の居場所を探すのはちょっと大変だった。
やっとの思いで先生が、当時東京音楽大学の学長の職にあることがわかり、早速大学の入試要項を取り寄せた。もう高校三年の春だったと思う。
僕と先生の最初の出会いは、その高校三年の夏に受けた音大の夏季講習会だった。講習会の通知が来て、担当教員の名に“伊福部昭”とあるのを見たときには、僕は部屋中踊り狂った。後年先生に聞いたところによると、その年だけ人手が足りず、学長自ら夏季講習を担当したらしい。
今でもハッキリと覚えているが、初日、教室のドアを開け、テーブルの向こうに白い麻のジャケットを着たダンディーな、否、作曲家の風格そのものと言っていい先生の姿を見た瞬間、全身に汗が吹き出るのを感じた。僕は、ほとんど先生を見ることが出来ず、握りこぶしを太股に置いてジッと下を向いたまま座っていた。緊張と感激の時であった。
それから26年。その26年間の先生との月日が12日のたった数十分の内に蘇ってきたのであった。今このコラムを書きながらも、きっと書いても書いても書ききれないであろう先生との思い出の数々。まだ僕の中で整理できていない感情を含め、これから僕が人生を全うするまで、それら全ては僕の宝であり、作曲家としての礎であると思っている。
そして、伊福部音楽と先生の志を継承し普遍することが、先生へのご恩を何百分の一でも報いることと思い、有志と供に今、伊福部作品のコンサートを企画している。正式な発表は、後日このサイトでもご報告するが、出来るだけ多くの方々に参加して頂き、そして多くの伊福部音楽ファンのため、そしてこれからの日本音楽界のためになるようなコンサートにしたいと思っている。
「大楽必易」
この言葉の深遠と実践のために。
慎んでご冥福をお祈りいたします。
和田 薫