コラムを3回連続するなんて、ちょっと無謀かと思いましたが、いやぁ、 コンサートのことになるといろんなことが思い出されて、書きたいことが山のように出てきます。

さて、第二回の今回は、タイトルにもあるとおり、このコンサートで初演 した「津軽三味線とオーケストラのための“絃魂”」の作曲の裏話やリハー サルのこと等々を書いていきたいと思います。

みなさんは、作曲ってどうやってやっていると思いますか?モーツァルトのように、溢れ出る泉のように楽想が出てくる?ベートーヴェンのように、楽想の小径を小難しい顔をして歩きながら楽想を考える?確かに、作曲家それぞれ創造の出発点や創作の過程は違うでしょう。僕の場合は、まず第一にその作品で何を表現・体現したいのか、という形而上的 なテーマの様なものを見つけるところから始まります。音楽の実態としての、メロディーやリズム等はまだまだ先の過程なんですね。

前回のコラムでお話したように、その新作は“King of 津軽三味線”木下伸市さんの津軽三味線を想定して作曲をスタートしています。そういう意味 では、作曲のスタート地点である大テーマは決まっていました。
〈津軽三味線とオーケストラの融合と競演(バトル)〉
これが作曲のスタート地点でした。

木下さんに「オーケストラとの作品を書きたいんですけど」と最初にお話したのはいつの頃だっただろうか?2001年4月に公演された「木下伸市リ サイタル」で、弦楽オーケストラ・笛・和太鼓という編成でアレンジを担当させていただいたんですが、確かこの打ち合わせも兼ねて、木下さんに拙宅に来て頂いた時だったと思います。コンサートやアレンジの打ち合わせを一通り終え、僕の手料理を振る舞いながらいろいろと楽しいお話をしている中、「今度、オーケストラで個展をやるのでコンチャルトを演奏してくれませんか?」なんてことを言ったんだと思います。

木下さんも以前に「題名のない音楽会」でオーケストラと競演をし、かな りの手ごたえを感じたらしく、この僕の提案に大変興味を持ってもらいました。それから、木下さんの紹介で「三味線かとう」という荒川区にある三味線屋で、オリジナル楽器“エレキ津軽三味線”を購入し、いろいろと研究を始めました。それ以前にも三味線は、細竿と言われる長唄用の三味線を持っていて、たまーに録音などで弾いてはいたんです。 でも、今回は本格的な協奏曲。まずは楽器の研究と、木下さんの弾きのク セや曲弾きといわれるアドリブのパターンなどを研究しました。作曲の途中 で、木下さんに試し弾きをしてもらったこともありました。

そうして行く中、津軽三味線をオーケストラの中で表現するためにはどうしたら良いのだろう、という大課題が僕の中で1ヶ月2ヶ月…1年と過ぎていきました。前述したとおり、津軽三味線の真髄は「曲弾き」といわれるアドリブにあると言っても過言ではありません。それは演奏家の顔であり醍醐味 でもあるのです。その曲弾きを新作という型の中にどう位置づけるか?試行錯誤をしながら、実はその段階で2年位かかってしまいました。

劇伴などは、1週間で20曲も30曲も書くことがあるのですが、本来作曲と いう作業は、このくらい時間を重ねて創り上げられていくものなのです。ブラームスは交響曲第一番の作曲に20年も費やしているんです。もちろん、劇伴と純音楽は第一回目のコラムに書いたように、音楽の種と実りが違うので作曲の仕方も自ずと違ってくるのですが、この“絃魂”はかなり難産だっと 言えます。

結果として、曲弾きとして「津軽じょんから節」を曲中に配し、オーケス トラはそれに相対した距離感で包括する手法をとりました。文字にするとな んだか小難しいですね。このパートを中心として、シンメトリーな構成を組み、それからようやく主題–所謂モチーフの作曲に取り掛かりました。

大体のスケッチが出来たところで、木下さんの練習用のためのシンセサイ ザーによる打込みデモを作りました。ソロパートの譜面とこのデモで練習を してもらうのですが、確かそれをお渡ししたのがコンサートの2ヶ月位前だったと思います。そこから木下さんの意見を聞いてフレーズを変更したり、オーケストレーションの作業に取り掛かるわけです。

スコアの最後のページに作品の完成日を書き込むのですが、“絃魂”の最 後のページには「October 13th 2003」と書かれてあります。コンサートから1ヶ月を切ってようやく完成したわけです。自分でも結構ギリギリまで粘 ったなぁと思います。

さて、そんな苦行とも言える作曲作業の中、コンサートの準備もしなくて はなりません。ポスター・チラシの制作や出資広告のお願いなど、日ごろの 仕事と合わせて目の回るように忙しさでした。

そんな中、「題名のない音楽会21」の仕事で司会の羽田健太郎さんにコ ンサートの話をしていたら、「なんだ和田君、だったら僕も応援に駆けつけるよ。飛び入りでピアノを弾くって言うのはどう?」なんて嬉しい言葉を頂きました。この番組にはもう7年携わっているのですが、スタッフや キャストの連帯がスゴク良く、羽田さんも僕のために一肌脱いでくれまし た。嬉し涙ものですね。

折角名ピアニスト羽田健太郎さんが弾いてくれるのであれば、もうあの曲、 「映画犬夜叉 時代を越えた想い」の中の「時代を越えた想い」を弾いても らうしかないと思い、コンサート用に急遽アレンジして準備を進めました。

さて、やっとの思いで演奏する楽曲が全て揃い、いよいよリハーサルです。リハーサルは、11月1日第一部アンサンブル作品の中の「笛と邦楽打楽器、 西洋打楽器のための楽市七座」からスタートしました。この作品のために、初演者でもあり作品を献呈した打楽器奏者のマイケル・ユドーさんが、友人のアンソニーと共に来日してくれ、素晴らしい演奏を披露してくれました。このアンサンブル作品は、次回のアルバムに収録する予定ですので、その時にまたいろいろとお話したいと思います。

11月3日、オーケストラのリハーサル一日目。場所は池袋にある芸術劇場 大ホールで行いました。日頃、劇伴等の録音では自身で棒を振るのですが、今回は聴衆の前に立ってステージでの指揮。いつもと全く勝手が違います。まず、録音の時の10倍は体力を使います。80人からなるオーケストラを引っ張っていくのは、日頃運動不足の僕にはかなり苛酷でした。

でも、自分の作品が自分の棒で音になるというのは、通常客席で聴くのと はちょっと違った感覚を感じます。喜びと不安、緊張と炸裂が同居した感じ。なんとも言葉では言い表せないニュアンスです。

大体、作曲家の指揮というのはデタラメなものが多いんです。ウツクシクないというか、本職指揮者のようにオーケストラを自在にコントロールできるわけもなく、つい支離滅裂になってしまいがちなんですね。

では、なぜ自分で振ったのか?これは日フィルのある楽員のひと言がきっかけでした。僕が指揮者の選択に迷っていたとき、「和田さんが振ればいいじゃない。僕らは頭だけ(曲始まり)くれれば大丈夫だよ。作曲者が自分で振った方が良いよ。」 この言葉が、不思議と僕に活力と勇気を与えてくれました。楽員は、指揮 の上手い下手じゃなく、もっと違うものを求めているんだな、と感じたのです。

そんな想いを確かめながら、リハーサルは進み、第一日目は無事に終了し ました。  が…!なんだか妙に身体がだるい。リハーサル後食事に行っても全然食べ られない。寒けがする。……ヤバイ!!タクシーですっ飛んで帰って熱を計ったら39°!なんてこった。ここまで来て体調を壊すとは!ここまでの疲労が イッキに来たんだろうか。それにしても情けない、そんな思いが頭の中を駆 け巡りました。音楽家にとって体調管理は最重要課題。それがコンサート直前に高熱を出すとは。

幸い家の直ぐ裏が病院だったので、急患で飛込みクスリを処方してもらい、なんとか翌日には熱が下がりました。もう気力で行くしかないですね。

そしてリハーサル二日目。喉に湿布を貼りつつリハーサルに臨みました。楽員が心配するといけないので、「昨日のリハで声出し過ぎちゃった。」となんとかごまかしながら練習を進めました。今日は、木下さんとオーケストラの初合わせです。緊張と神経の集中が最高潮でした。しかし、木下さんの見事な演奏。それに反応してオーケストラも燃えに燃えた演奏を聴かせてくれました。リハーサルなのにこんなに音出して大丈夫?なんてこっちが心配してしまうほどでした。

気が付けば、僕の身体も軽くなって、頭もスッキリ。このリハーサルでかなりの汗をかき水分を補給したせいか、昨日の熱がウソのように、リハーサルが終わる頃には体調が回復していました。さぁ、いよいよ次回コンサート本番!楽しみに待ってて下さいね!!